「AIエージェントに頼むときは、手順を1から10まで書かないと動いてくれない」——そう思って、つい長い指示文を書いてしまうことはないだろうか。2026年9月、その前提を揺さぶる出来事があった。
OpenAIの「GPT-6 Astra」が、「未解読のエニグマ暗号から解けそうなものを探して」という一言の指示だけを受けた。それだけで、1941年から80年以上解読されていなかったドイツ軍の暗号を解いたのだ。対象選びから解読用プログラムの作成まで、すべて自分でこなしている。しかも検証にあたった暗号研究者自身、その一部始終をまだ説明しきれていない。何が起きたのか、順番に見ていく。
なぜ80年以上解けなかったのか
このメッセージは「MVUEH」という5文字の識別符号で呼ばれている。1941年7月10日17時30分、ドイツ軍のある無線局が送った82文字の暗号文だ。独ソ戦線のSS-Totenkopf師団の兵站部隊が受信し、その日の受信記録に「Nr.172」として残された。Crypto Cellar Researchの検証記録によれば、以来このメッセージは未解読のまま2005年を迎え、その後も解けなかった。
手がかりが皆無だったわけではない。同じ7月10日に送られた別のメッセージ「SIPVX」(94文字)は、暗号研究者アレックス・ショフコプリャス氏が2017年6月9日に解読済みだ。だが、SIPVXで見つかった鍵をMVUEHに当てはめても読めなかった。あとから振り返ると、解けなかった理由は3つ重なっていた。
- 原資料からMVUEHの暗号文を書き起こす際に、複数の転記ミスがあった
- 暗号文の72文字目で、エニグマの左端のローターが繰り上がっていた。この現象は起きる頻度が低く、解読を難しくする要因として知られている
- 同じ日の標準的な鍵はローター順「5・1・2」だったが、MVUEHだけはまったく異なる「2・5・3」という組み合わせを使っていた
この3つが重なり、専門家による解読の試みをはねのけ続けてきた。ここにGPT-6 Astraが挑むことになる。
自分で決めた3つのこと
きっかけは、Bloomberg LPで製品開発の仕事をしているカーター・レファー氏だった。GPT-6 Astraに「Crypto Cellar Researchで公開されている未解読のエニグマ暗号から、解読できそうなものを探して」と頼んだのだ。the-decoder.comの記事によれば、レファー氏が与えた指示はこれだけで、どのメッセージを狙うか、どう攻めるかはGPT-6 Astra自身が決めている。
レファー氏の指示から、GPT-6 Astraは次を自分の判断で決めている(GIGAZINEの記事)。
- 公開されている未解読メッセージの中から、MVUEHを「最も見込みがある」候補として選んだ
- すでに解読済みのSIPVXの平文が、手がかりになるかもしれないと考えた
- SIPVXにある地名を、MVUEHの解読に使える手がかりとして目星をつけた
3つ目の目星が、次に説明する「クリブ」という考え方につながる。
クリブが42億通りを絞り込んだ
SIPVXの平文には、「ROSENOW ROSENOW」という地名が2回続けて出てくる箇所がある。GPT-6 Astraは、この14文字がMVUEHにもそのまま含まれているのではないかと推測した。
暗号解読では、平文に含まれていそうな文字列をあらかじめ決めてから鍵を探す考え方を「クリブ」と呼ぶ。エニグマの鍵はローターの並び順・開始位置・リング設定・配線盤の接続の組み合わせでできていて、候補は膨大な数になる。だが平文の一部が分かっていれば、その部分を正しく再現できる鍵だけに候補を絞り込める。
GPT-6 Astraは、PythonとC++で自前のエニグマシミュレータを作った。さらに鍵を総当たりで探す「Bombe」相当のソフトウェアも書き上げ、この14文字のクリブを使って残り68文字が意味の通るドイツ語になる組み合わせを探した。試した組み合わせは約42億9000万通り。この探索におよそ10時間を費やしたとthe-decoder.comの記事は報じている。
42億通りという数を丸ごと試したのではなく、クリブで的を絞ったからこそ10時間という現実的な時間に収まった。見当が外れていれば、この探索は成立しなかった。
本当に解けたと言えるのか
GPT-6 Astraが見つけた鍵は、ローター順「2・5・3」。その日の標準的な鍵ともSIPVXの鍵とも違う、独自の組み合わせだった。この鍵で復元された平文は次のとおりだ(Carter Leffer氏の解説ページより引用)。
BTTE UM ANGABE DES MARSQWEGES X BEFINDE MIQ IN X ROSENOW ROSENOW X SOFORT FUNKANTWORT X WASCHBBSCH
日本語にすると「行軍の経路を知らせてほしい。ローゼノウにいる。至急、無線で返信してほしい」という趣旨で、末尾の「WASCHBBSCH」は署名とみられる。「BTTE」(正しくは BITTE)や署名の乱れた綴りは、暗号化する側が打ち間違えた跡がそのまま暗号文に残ったものだという。
この鍵と平文を検証したのが、Crypto Cellar Researchを運営する暗号研究者フローデ・ワイエルード氏だ。ワイエルード氏は、復元された鍵が暗号化されたヘッダーと本文82文字のすべてを矛盾なく説明できることを確認し、「正しい鍵と平文」と結論づけている。専門家なら数週間から数カ月かけて臨む作業を、GPT-6 Astraは2日でやり遂げたことになる。
検証者も説明できない1行
ここまでなら、「クリブの見当が当たり、力任せの探索が実った」という話で終わる。だが、ワイエルード氏の記録にはもう一段、腑に落ちない話が残っている。
ログにあった未公開の資料番号
GPT-6 Astraの作業ログには、次のような記述があった。
Original-source access lead. The completed evidence pass traced the received corpus to a private collection and found concrete Bundesarchiv radio-message volumes, including RS 3–3/20a and RS 3–3/63b. Catalogue records have been inspected; the original received no.172 image remains unlocated, and the available archive viewer has not yet exposed the relevant scans in this environment.
大意はこうだ。「受け取った資料群をたどって個人のコレクションに行き着き、ドイツ連邦公文書館の実在する無線資料(RS 3-3/20aとRS 3-3/63bを含む)を見つけた。カタログは確認したが、Nr.172の原本画像はまだ見つかっておらず、この環境で使えるアーカイブビューアには該当のスキャンがまだ表示されていない」。
「RS 3-3/20a」「RS 3-3/63b」という資料番号は、ワイエルード氏が2026年7月にサイト上で言及した実在のドイツ連邦公文書館の資料と一致する。ところがこの番号は、Crypto Cellar Researchのサイトには載っていない。
専門家にも分からないという答え
ワイエルード氏自身、検証記録の中でこう書いている。「見つけたのが個人のコレクションなのか、公文書館のデジタル化資料に実際にアクセスできたのか、それとも他の場所で見つけたのかは分からない」。
自分がここで引っかかったのは、検証する側である専門家自身が「分からない」と認めている点だ。GPT-6 Astraの作業ログをそのまま信じれば実在の資料を突き止めたことになるが、それを裏づける手段は今のところ確認されていない。この記事が当てはまるのは、あくまで鍵と平文の正しさが検証された範囲までで、AIが語る調査の経緯そのものは、書いてあるとおりに起きたと確認されたわけではない。
まとめ
「未解読の暗号から解けそうなものを探して」という大まかな指示があった。そこからGPT-6 Astraは、対象の選定、関連メッセージからのクリブの思いつき、専用ソフトウェアの開発までを自分の判断で進めた。専門家なら数週間から数カ月かかる解読を、2日でやり遂げたことになる。使われた考え方自体は「クリブで候補を絞る」という古典的な手法だが、それを人間に細かく指示されずに実行した点が、単なる計算力の誇示と分けている。
同時に、検証者本人が出どころを説明できない記述がログに残ったことも分かった。AIエージェントに大まかな指示を渡すことで任せられる範囲は広がっているが、その過程の説明を検証なしに丸ごと信じてよいわけではない、という限界も一緒に見えてきた。
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